兵庫県立龍野高校テニス部事故を考えるウェブサイト

2007年5月24日、兵庫県立龍野高校テニス部の練習中に倒れ、いまも意識が戻らないリサさん。事故発生とその後の状況について検証し、ともに考えたいと思います。

情報開示について(その4)

[ 2011/04/25 09:10 ]
 当ブログ11年4月20日付記事の続報です。

 大阪地裁(黒野功久裁判長)は10年6月30日、
「回答した生徒の姓名を開示しない」ことなどを条件に、学校が保有する文書を
一部開示すべき、との判断を下しました。
 これを不服とした大阪府が大阪高裁に抗告し、大阪高裁(三浦潤裁判長)は
11年4月11日、全面不開示が妥当として大阪地裁の判断を覆したわけです。

 大阪高裁は、その理由として
「生徒は結果が公開されることがわかっていれば、そもそも事情聴取に応じず、
又はこれに応じたとしても正直に答えないなどのおそれがある上、教師には、
生徒に対して事情聴取に協力することを強制する権限はない」とし、
公開した場合には
「生徒と教師との間の信頼関係を著しく破壊するおそれが高い」
と指摘しています。
 ただし、なぜそのような「おそれが高い」と判断したのか?という根拠は
明示していません。
 つまり全面不開示という結論ありきで、この結論を導き出すために
かなり無理のある論理を設定した、と言わざるを得ません。

 ここで確認しますが、自殺事件が発生したのは07年10月9日です。
 同校に07年度に在籍していた生徒全員が留年を繰り返し、いまも全員が
在籍したままというなら話は別ですが、そのような事実はありません。
 すでに卒業した生徒たちと、当時勤務していた教師たちの信頼関係は
すべて個々の関係性に基づくものであって、第三者が勝手に推定しうるもの
ではありません。

 そもそも自殺した生徒と教師との間に「信頼関係」はあったのでしょうか?
 自殺した生徒が胸のうちに抱えていた痛みについて、教師たちが把握し、
具体的に対応していたのか?という疑問があります。
 すなわち教師たちの力量不足や日常の指導体制の不備に起因する、という
可能性があります。

 こうした点について検証しないまま、自殺という重大な事件を
「なかったことにしてしまおう」と言わんばかりの学校と大阪府の対応は、
きわめて不適切かつ不透明、そして不健全と指摘せざるを得ません。
 このままでは実効性ある再発防止策の作成や、その運用の徹底を図ることなど
まったく不可能です。

 そしてなにより当事者である学校と学校設置者である大阪府が、情報開示に
関する決定権を握っているということが最大の問題です。
 学校関係者だけで、つまり保護者が同席しない場で生徒たちに事情を聴いて、
「学校に都合のいいものは開示する、都合の悪いものは開示しない」
という、きわめて恣意的な取り扱いが許されていること自体、大問題です。

 つまり、あくまで情報を開示しないということは、
「隠蔽が学校関係者および教育行政に携わる者の利益を守るために有効と判断した」
からであって、言い換えれば
「学校関係者および教育行政に携わる者にとって好ましくない要因が含まれている」
からこそ、なりふりかまわず隠蔽している、という推定が成立します。
 そして、内向きの論理を振りかざし続ける彼らの姿勢は
「被害にあった生徒と保護者の権利を侵害することが問題であるとは認識していない」
ことを、なにより雄弁に物語るものではないでしょうか?

 繰り返し指摘しますが、重大な事故や事件が発生するには、必ず原因があります。
 この原因を究明しないまま、対策を講じることなどできません。
 すなわち原因を究明しないということは、重大な事故や事件が再発する芽を摘み残す
ということです。
 皆さんは、このような姿勢を教育現場において温存することが適切なことと
お考えでしょうか?

 教師も生身の人間です。けっして全知全能でも無謬でもありません。
 そして在校生が亡くなる、ということは学校にとって最大の痛恨事です。
 けっして忘れてはならないし、教訓として生かすことこそ、亡くなった生徒と保護者
に対するせめてもの誠意ではないでしょうか?
 自らの力の限界を自覚し、真摯に事実に向き合い反省し、痛烈な経験から謙虚に学ぶ
ことがなにより大事です。
 自分が無謬だと思った瞬間、人間は傲慢に、尊大になります。
 それこそがヒューマン・エラーの発生につながるということは、東京電力福島第一原発
事故で、わたしたちが得た貴重な教訓ではないでしょうか?
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heppoko runner

Author:heppoko runner
 子どもは社会の宝です。
 なぜなら20年後、30年後の社会を支えてくれるのは彼ら彼女らであり、彼ら彼女らのいのちや権利を粗雑に扱うということは、すなわち日本の、ひいては人類の未来に対する責任を放棄することです。
 そんな無責任な態度は、断じて許されません。
 子どものいのちと権利を守るために、わたしたちはなにをしなければならないのか?なにをしてはいけないのか?
 いっしょに考えていただきたいと思います。

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