兵庫県立龍野高校テニス部事故を考えるウェブサイト

2007年5月24日、兵庫県立龍野高校テニス部の練習中に倒れ、いまも意識が戻らないリサさん。事故発生とその後の状況について検証し、ともに考えたいと思います。

学校・部活動における重大事件・事故から学ぶ研修会(その3)

[ 2017/02/01 17:26 ]
 「第3回学校・部活動における重大事件・事故から学ぶ研修会」が、
2017年1月30日18時00分から日本体育大学世田谷キャンパス
記念講堂で開催され、学内外から300名を超える参加者が集まりました。
 今回は学外からの問い合わせが200件に達したということで、
いじめ・指導死に対する社会的な関心の高さが示されました。

 いじめと指導死。
 いずれも暴言・暴力によって被害生徒の人権を侵害し、自尊感情を
深く傷つけることで「自分は価値のない、必要のない人間だ」と思い込ませ、
最悪の場合自死にまで追い詰めてしまうという点で共通しています。

 いじめについては、17年1月30日付福島民報「あぶくま抄」が

 「いじめられる側に非はない。なぜなら、この世には人さまをいじめて良い
という道理が存在しないからだ」。福島市の小学校で男性は教壇から教え子の
目を見つめて静かに語り掛けた。教えを受けた身とすれば、40年ほど前の
恩師のまなざしが忘れられない。
 国を挙げていじめ根絶を唱えてはいるが、精神的にも肉体的にも追い込まれ、
命を絶ってしまった子どももいる。わが子を失った父親の言葉を思い出す。
「二度と同じようなことが起きないように私たちの経験を生かしてほしい」。
果たして教訓は生かされているのだろうか。(後略)

と書いているとおりです。

 指導死については、「『指導死』親の会」の共同代表・大貫隆志氏が
「指導の名のもとに行われる教師によるパワーハラスメント」
とし、「指導」には、目的の妥当性・手法の妥当性・結果の妥当性が必要なの
にもかかわらず、
「教師の『指導』を受けた直後に自死に至った事案を検証すると、多くのケースで
感情的な暴言や恫喝、教師の思い込みによる冤罪、反省や謝罪の強要が
浮かび上がってくる。これはもはや虐待だ」
と述べました。
 そのうえで
「子どもたちは間違いながら成長していくものなのに、失敗も逸脱も許さないという
教師の態度に、生徒たちは息苦しさを感じている」
と述べ、教育の名を借りた暴力だと訴えました。

 同会の共同代表・安達和美氏は04年3月10日、長崎市立中2年だった次男が
担任教諭から「指導」を受けた直後、校舎4階から身を投げた経験を語り
「同級生たちに話を聞くと、担任は生徒たちの声に耳を貸さず、日常的に暴力を
ふるっていたことがわかった」
と述べました。
 そのうえで、担任が自らの責任については「わからない」と述べていたことを明らかにし、
「わからないならわからないなりに、一緒に考えてほしいと望んでいたが、これが
叶えられることのないまま、一切の処分も受けないまま、当時の担任はいまも教壇に
立ち続けている」
と、その胸中を吐露しました。

 日体大が16年12月15日付で発行した『スポーツ指導者のためのガイドライン』は
「教師が生徒に体罰を加える時、多くの場合理性的な行動としては行われません。
感情に任せてふるわれる暴力は、コントロールが困難となります。もしそこでの暴力が
原因となって、子どもが心身に深い傷を負ったり、死に追いやられたりした場合、
それでも『信頼関係』の下での『愛のむち』として許されるのでしょうか」
と問いかけています。
スポンサーサイト
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL

プロフィール

heppoko runner

Author:heppoko runner
 子どもは社会の宝です。
 なぜなら20年後、30年後の社会を支えてくれるのは彼ら彼女らであり、彼ら彼女らのいのちや権利を粗雑に扱うということは、すなわち日本の、ひいては人類の未来に対する責任を放棄することです。
 そんな無責任な態度は、断じて許されません。
 子どものいのちと権利を守るために、わたしたちはなにをしなければならないのか?なにをしてはいけないのか?
 いっしょに考えていただきたいと思います。

最新トラックバック