兵庫県立龍野高校テニス部事故を考えるウェブサイト

2007年5月24日、兵庫県立龍野高校テニス部の練習中に倒れ、いまも意識が戻らないリサさん。事故発生とその後の状況について検証し、ともに考えたいと思います。
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隠蔽と捏造

[ 2011/05/31 08:23 ]
 2011年5月28-29日の両日、「全国学校事故・事件を語る会」
全国集会が神戸市で開催されました。
 台風2号の接近にともない風雨が強まるという、あいにくの空模様でしたが
今年も全国から2日間で延べ100人を超える参加者が集まりました。

 学校関連の事故や事件については、現職の中学校教員が
「ごめんなさいで済むことなら、学校は綿密な調査をし保護者に報告もする。
ところが、ごめんなさいでは済まないことが起きたときは『なかったこと』に
しようとする」
と指摘していますが、その構図に変化はなく、どころか最近はより一層
その傾向を強くしているという実例が数多く報告されました。
 
 特に教師による「指導」の名を借りた暴行によって、多くの生徒が死亡し
あるいは重篤な後遺症に苦しんでいる、という実態が明らかになりました。

 たとえば生徒が生徒に向かって殴りかかる、あるいは生徒が教師に向かって
殴りかかったときは、教師は必ず止めようとします。
 しかし教師が生徒に向かって暴行を加えても、だれも止めようとはしません。

 そこには教育的な配慮も自制心も指導力も、いささかも見出すことはできませんが、
なぜか容認され放置されている、というのが実態です。
 気象条件や教育環境はもとより、一人ひとりの生徒の体力や体調に心を配ることが
安全配慮義務を果たすための第一歩であることは論を俟ちません。
 しかし残念なことに、安全配慮義務を達成することを最優先に考えるという
基本中の基本は、なぜか顧みられることがないままです。
 それは
「自分もかつて危険な目にあっていたけれど、たまたま運よく事故は免れた」
に過ぎない教師が、熱中症をはじめとする体力的な負担、そして暴言を繰り返すことに
よって生じる精神的な負担が、子どもたちにとってどれほど大きなものか?
という発想と思考力が、まったく欠落していることによるものです。

 その結果、学校という制度は
「なにをどうしようと、けっして事故・事件は起きない」
という、まったく根拠のない楽観論の上に成り立っています。
 だから、起こってはいけないはずの事故・事件が起きたときには
「被害にあった生徒の権利を守るために、いかに行動すべきか?」
という、民主主義社会において当然の発想が浮かびません。
 それどころか、学校と教師の責任を回避するという姑息な至上命題を達成するため
「なんとしても事実を隠蔽する」
ことを主眼とし、したがってここが出発点であり、着地点となります。
 そのために
「原因も責任も、被害にあった生徒と保護者に転嫁する」
という目標の実現に向けて、関係者はこぞって口裏を合わせ、事情を知る生徒たちには
箝口令を敷き、一連の過程で発生する矛盾を解消するために捏造を重ねるのです。

 もちろんそこには
「学校はだれのためにあるのか?」
「学校にとって最優先で守らなければならないものはなにか?」
という視点は存在しえません。
 たいへん悲しいことですが、こうした現実がいまもあり、毎年全国各地で事故・事件が
再発しているのです。

 いまこそ
「安全配慮義務を実現するための具体策を講じないかぎり、事故・事件は起こりうる」
ということを前提として、学校という制度を設計しなおすというパラダイム・チェンジが
必要です。
 その際、けっして忘れてはならないのは
「こんな思いをするのはわたしたちだけでたくさんだ。二度と繰り返してほしくない」
という、ご家族の悲痛な叫びです。
 全国の学校関係者は謙虚に反省し、被害者の声に真摯に耳を傾け、実効性のある
再発防止策を策定し、その運用の徹底を図ることが急務です。
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プロフィール

heppoko runner

Author:heppoko runner
 子どもは社会の宝です。
 なぜなら20年後、30年後の社会を支えてくれるのは彼ら彼女らであり、彼ら彼女らのいのちや権利を粗雑に扱うということは、すなわち日本の、ひいては人類の未来に対する責任を放棄することです。
 そんな無責任な態度は、断じて許されません。
 子どものいのちと権利を守るために、わたしたちはなにをしなければならないのか?なにをしてはいけないのか?
 いっしょに考えていただきたいと思います。

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